大安製作所
三重県いなべ市にある大安製作所は操業は1982年の製作所です。事業内容は点火系製品、先進安全関係製品、動弁系製品、駆動系製品、吸排気系製品の製造です。
デンソーの全製作所の中で西尾製作所についで従業員数が多く(4696人、2018年3月31日時点)、期間工の配属も西尾に次いで多い製作所です。
私は2012年5月より善明製作所からこの大安へと移動となりました。善明での噂話程度でしたが、「大安はなかなか難しいところ」というのを聞いていました。
私の配属先は
大安製作所
点火製造部
プラグ工場
それでは大安での日々についてです。
点火製造部プラグ工場
2008年9月のリーマンショック後国内の自動車販売台数は激減し、当然点火製造部も生産がかなり落ち込み、稼働が大きく低下しました。
ただ2009年4月のエコカー減税、同6月の購入補助金によって自動車販売台数が例年並みに回復してくると、一転して以前の高い稼働状態に戻ったとのことです。
私が移動してきた2012年5月の段階で、自職場を含めて周りはフル稼働状態 。私は常昼勤務と2組2交替と3組3交替を合わせた職場に配属されました。
職場は青山寮から見てちょうど反対側で、歩いて30分かかるところにありました。一応自転車での通勤も認められていましたが、あえて徒歩で通勤します。
このような環境の中で2012年5月~2013年10月までの1年半、ここでスパークプラグの製造に携わることとなりました。
プラグ工場での作業
配属されてから最初の3ヶ月は簡単な機械作業、手作業をして残りの1年3ヶ月はマシンオペレータでした。
機械作業、手作業は具体的にはグリス塗、マスキングテープ貼り、凸加工、パレット詰替作業などです。
製品に筆でグリスを塗る、レーザー加工したテープを貼る、先端を加工する、単純にパレットから別パレットへ詰替えるなど。
どれも1つ1つの作業は簡単で1時間当たりの標準出来高をこなすことはできましたが、女性社員・期間工との圧倒的な差を見せつけられたりもしました。
これらの作業を3ヶ月した後、期間工の満了者が出てその後釜として合理化ラインに入ることになります。
私が担当したスパークプラグ製造の合理化ラインは結構難易度が高かったと思います。生産台数を出し、品質を重視し、設備保全をする、とこの3つを見るのです。
決してできないとかではありませんが、次に述べるフル稼働と組み合わさってとにかく忙しかった記憶があります。
フル稼働
私が配属された職場は常昼勤務、2組2交替、3組3交替が混在している職場でした。3組3交替はA勤、B勤、F勤の3交替という勤務形態です。
常昼 8:40~17:15
昼勤 8:40~17:15
E勤 19:55~4:45
A勤 7:25~16:00
B勤 14:05~22:40
F勤 22:35~7:25
膨大な生産量に確実に対応するため、このように複数の勤務形態が混在していました。当然みんな残業申請をしていて、年間残業上限が720時間と知ったのもこの時です。
昼勤E勤で昼3,5時間と夜2,5時間の残業やA勤、B勤で残業、F勤で早出など、とにかく残業があります。これに土・日曜日の休日出勤が加わって残業申請となるのです。
今現在ならこのような勤務は認められないと思われますが、当時のデンソーでは普通に見られる光景で、私を含め周りも「良く稼げるから」とむしろ望んで働いていたのです。
我ながら当時はよくやったと思う。私はずっと2組2交替でしたが片道30分の徒歩通勤とフル稼働をこなしました。
当時はつらかった記憶しかなかったのですが、今から大安時代を回想してみると不思議なことにいい記憶として印象に残っています。人間とは都合がいい生き物ですね。
デンソースパークプラグ60周年
2018年、デンソーのスパークプラグが生産され始めてから60年になりました。これだけ長い年数生産され続けるのは素晴らしいことです。
その60周年の一環として、なんと三岐鉄道三岐線の一部車両がスパークプラグ仕様となっているとのことです。これは何としても見に行って乗らなければなりません。
あなたのハートにスパークを‼
近鉄富田駅3番ホームで待ち続け、ようやくスパークプラグ仕様の車両に出会うことができました。(藤原側が水色、富田側が白色、写真撮影は別駅)
このラッピングはいかがでしょうか?
私は自分のハートがスパークしそうになりましたw
おかげさまで、デンソースパークプラグ60周年
側面には様々な表情をしたスパークプラグたちが並んでいて、それぞれが吹き出しで世界の偉人たちの名言を口ずさんでいます。
大安製作所の青山寮、高見台寮、若鮎寮の寮生は何かと三岐鉄道に乗る機会も多いはずです。このような車両に乗るというのもまたいいもの。
かつて自分も製造に携わっていたスパークプラグがその後も順調に生産を続け、今年になって60周年として再開できるとは夢にも思っていませんでした。
本当にあの時の記憶がよみがえってきます。これからも信頼される良い製品を造り続けていってください。